豊臣秀吉ゆかりの地

豊臣秀吉ゆかりの地

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤「豐臣 秀吉(とよとみ ひでよし)」のゆかりの地や秀吉に関する展示がある施設。

豐臣 秀吉(羽柴 秀吉)

天文6年(1537年)、尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)の下層民の家に生まれた。

はじめ木下藤吉郎と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国(現在の浜松市)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕えた。

天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕える。清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角をあらわしていった。

永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したこと(観音寺城の戦い)。 同年、信長の上洛に際して明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。

天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。この頃、木下氏を羽柴氏に改めている。天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍する。

信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。

織田家内部での勢力争いに勝利し、信長の実質的な後継者の地位を確立した。大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を臣従させ天下統一を果たした。

太閤検地や刀狩などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げるが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没した。